私とゲームと、あるいは私という存在について

 
――小説を読まなくなっても、漫画を読まなくなっても、アニメを見なくなっても、
それでも私は、「ゲーマー」でありたい。
 
 
 
はじめましての方ははじめまして。
あるいはそうではない方は、お世話になっております。
つわぶき すずりと申します。
 
この記事を立てることになりましたきっかけというのも、コーエーテクモゲームス ガストブランド&東映アニメーションによる『拡張少女系トライナリー』というスマートフォン向けアプリにおいて、四月のサービス開始より毎週水曜日に欠かさず更新されていたメインストーリーがひとまずの終わりを結び、ユーザー=「bot」たちが物語に対する感想を述べるだけでなく、その道程において「どのように考え、何を選んできたのか」というスタンスの表明を続々と始めたことにあります。
先駆者の方々の記事は追える限り読ませていただいております。そして、それに続くために私も記事を一筆仕上げようと考えたわけであります。
Twitterでは日常的に様々考えていることをアウトプットしていますが、今回は特に腰を据えて長く考えなければならないのと、物理的に尺が必要だと判断したため、このようにブログを開設することにしたのです。
 
さて、私も流れに乗じて「私のトライナリー」においてどうしてきたのか、何を考えて選択をしてきたのかをしたためようと考えたわけですが、それについて語るにおいては、私が「わたしというもの」をどう捉えているかということと不可分であることから、まず自己紹介がてらそのあたりを述べることにします。
 
 

 


 
 
さて。自己紹介といっても取っ掛かりもなくあらゆることを並べ立てても面白く出来るものではないですし、ここではTwitterアカウントのbiographyをもとにお話をします。手前味噌なような気もしますが、そもそもこれこそが、私が私という存在をどのように規定しているのかを端的に表現したものと思って設定しているものだからです。
 
2017年12月現在、bioには以下の文言があります。
「いたみを此処に。」「夢寐の虜。」「記号の徒。」「電子の海の生ける亡霊。」
……一見意味がわからないと思いますので、解説していきます。
なお、それぞれについてもっと膨らませることが出来る余地があると感じたので、一つずつ細かく詳しくは、また後ほど記事を作るかもしれません。
 
 
――「いたみを此処に。」
かつて、『自殺部 天ヶ瀬唯は死を想う』という作品がありました。
あるいは、『丘ルトロジック』『愚者のジャンクション』という作品があります。
あるいは、『CROSS†CHANNEL』という作品があります。
あるいは――『輪るピングドラム』という作品があります。
私がこれらの作品から見出したのは、社会的に「弱者」とされてしまった、生きづらさを抱えた人々の姿でした。
……昔、子どもの頃、小説をはじめとした本を読み始め、「私ではない誰か」の立場を想像することができるようになった折、私は幼い素朴さからこう思ったのでした。
 
「こんな風に理不尽な現実に苦しめられている弱い人々を、たすけてあげたい」
 
これは、今にして思えば無邪気な傲慢さでした。なぜならば今、自分自身がその「現実から苦しめられ、強い人々から失わされ、自分こそが一番、たすけを求めている」側の人間になってしまっているのですから。
「たすけたい」と思う気持ちはきっと間違いではなく、だけれど、自分が「たすけるだけの強い者」であると考えることは、弱い者達から失わせる強い人々と同じことだ、と今は考えているのです。
“ゆえに、いたみを忘れずに”。失わされることのいたみを知る者達が、せめてよりよく生きられるようにと、手を伸ばしあえるようにと、その思いを込めています。
 
 
――「夢寐の虜。」
夢寐(むび)とは、“眠って夢をみる間のこと”と言われています。
そしてまた、インターネットにおいてはMAD動画、特に(既存のアニメーション映像素材中心ではなく)静止画を用いたもの、静止画MADのことを、「ムービー=むび」という略称からそう呼称しています。
静止画MAD。これが、――この映像芸術が、私にとってはとてつもなく大きな、認識上の転換点でした。
何が変わったのか、と問われて、具体的な何かを返答することは難しいようにも思います。しかしあえて表現するのならばそれは、「こんな世界が存在する」のだという、ただそれだけのことでした。
それまでの手が届く範囲の経験では決して知り得なかったこと――私にとっての「世界の外部」――がたくさんあるのだということは、書物をはじめとしていろいろなものから思い知らされてきていました。
そんな一足飛びの未知の、最も大きな経験は、私にとってはネットワークの向こう側からもたらされた、映像芸術だったのです。
仮に今、私が「人生の大切な全てのことがつまってるんだよ」という言葉を借りるとするならば、*1
それには「ゲーム」あるいは「静止画MAD」がそうであると答えるでしょう。
私はそれらの虜なのです。ある人が絵画の虜になるように、ある人が音楽の虜になるように、そのものに美を見出して、魅入られてしまっているのです。
 
 
――「記号の徒。」
私はかつてとある大学の文学部において記号論・メディア論、それに関連しうる社会文化論について学んでおりました。
そこで学んだものが生きている、とまで言えるかはわかりませんが、世界を見るにおいての考え方のひとつとして、この分野で得られたものが反映されてはいると考えています。
自分は「研究」として出力できるほど精密な論理を積み上げることが苦手なもので、「もう卒業論文のときみたいなもんは書きたくねー」と思っていますが、学術的な論理をベースにしたお話は、楽しいものだと感じています。
師の影響でロラン・バルトジャック・ラカンは好みの感触ですし、個人的には宮沢章夫氏の『〈ノイズ文化論〉講義』は大切にしている一冊です。
後ほど述べることになりますが、分析的なゲーム研究は極めて好きな分野のひとつです。
 
 
――「電子の海の生ける亡霊。」
おそらく、今の私のことを説明するのに、この言葉が最も適切なのだと思います。
ひとは普通、現実に生きています。現実というものの定義はさておいて。
そして、その現実の身体を主体として、電子空間に仮想の「わたし」を作り上げ、それなりに活動をする。
ひとは、そんな活動の果てに、生きる意味を見出したり、死ぬ理由を見出したりするのだと思います。
私の現実は、――現実の身体、本名と肉体に拠る現実は、なんてことはなく、平坦です。それをなんとかしようと思ってこなかったことも確かだとは思いますが。
それに比べれば、私が一から作り上げてきた、この仮想の「電子のわたし」――ネットワークアカウント「つわぶき すずり」の見る風景は、よほど日々の刺激に満ちています。
肉体に拠らずテキストの集合体に過ぎないネットワークアカウントというものは、人間の「精神性」によってその個性を表出します。ゆえにその場における対人の関係性とは、基本的には「心がどれほど良い具合に交わせるか」ということになるのです。
ですから、現実に義務として生じてくる社会性とは全く別に、心で以て楽しんでいられる視界を持っていられる――理想的にはそうであるとされる――のですね。
 
……このあたりの話をし始めると極めて長い話になってしまいそうですので、閑話休題
つまり何が言いたいのかと言えば。「わたしという存在」は、私にとってはもはや「電子のわたし」のほうが、より主体的になっているということなのです。
ハンドルネーム「つわぶき すずり」としてテキストを出力し、感情を発し、フィードバックを得る、という行為の為に、本名「****」は現実を生き、キーボードを叩き、フィードバックを精神に受けているのです。
私はこんな現象を、この現代においては異常なことでもなく、恥ずべきことでもないと考えていますが。
 
とはいえ、ここではっきりさせておかねばならないのは、「電子のわたし」は限りなく私の「精神性」でありながら、それは現実の肉体に宿っている「わたしの精神性そのもの」ではないということです。どれほどリアルタイム同期を行いノイズを減らしても、それは所詮「同じことが記述されたもの」であり、分割不可能にして複製不可能な一つのものではありません。――電脳が現実に生まれない限りは、まだ。
 
ともあれそうして、電子の海を漂う、ただ生きているだけの亡霊のような私こそが、「わたしという存在」としてもっともふさわしくなってしまったのです。
 
そんな私がゲームと向き合うにあたって「(もうひとつの)わたし」として俯瞰することになる存在、『フロストレット』もまた、そんな「電子のわたし」として生じてきたのです。
 
 

 
 
『フロストレット』は、私がゲームにおいてプレイヤーキャラクターの名前の入力を求められた際に好んで使っているものです。
この名前それ自体に重大な意味が込められているわけではありません。
意味が生じてくるときがあるとすればそれは、「ゲームが『フロストレット』という存在を通して――または介することなく――『わたし』へと語りかけてくる」瞬間です。
 
ゲームの(ここでは特に、アナログゲームではなくテレビゲームやコンピューターゲームと呼ばれているものについて述べています)分析論においては、プレイヤーと主人公の代替性、あるいは同一性の有無、あるいはその度合いがしばしば注目されます。
すなわち、主人公とは「プレイヤー=あなた」がコントローラーで動かす物語上の駒のうちのひとつにすぎない場合。
あるいは、主人公とはゲームの内部に配置された「プレイヤー=あなた」と規定される場合。
あるいは、――ゲームがプレイヤーとして要請するのが、「あなた自身」である場合。
 
これらの代替性のありようがゲームの価値をそのまま規定しうるなどということはない、と前置きした上で、私は、最後に述べた「わたし自身」をプレイヤーとして要請してくるゲームに、強い魅力を感じています。それも、不意打ちのように突然に、求められているのが「わたし自身」であることに気づかされてしまうものは、特に。
「わたし自身」をプレイヤーとして要請する――それは俗に言えば、「メタ(フィクション)」と呼ばれるジャンルです。
珍しいものではありませんが、その技巧的な部分については探求が尽きないジャンルでもあります。
 
なぜ惹かれるのか。それは、これらのゲームはその試みがうまくいった時、本来(プレイヤーではなく主人公として)その語りかけを受けるべきポジションに置いておいたはずの「電子のわたし」を突き抜けて、「わたし自身の精神性」に直接に作用してくるものとなるからだと、私は考えています。
先に、「現実のわたし」と「電子のわたし」について述べました。
「電子のわたし」はもはや「現実のわたし」と同等の精神性を帯びており、いっそのこと「電子のわたし」を主体として私は「わたし」として考え、アウトプットを行っています。
それは考えてみれば、「現実のわたし」を変化させてしまうのがこわいから、なのではないかと思うのです。
私は、本当は現実に生き、現実で考え、現実に行動を起こさなければならないのでしょう。
自分で考え、自分で決めるのは、こわいことです。それでもいつかは、それをしなければならない時が来る――「そうしなければならない」と思わされる何かがやってくると思います。
そんな「そうしなければならない」と思わされる何かは、私にとっては、現実の人生の岐路よりも、ゲームとの向き合い方でした。そのほうが、より大事なことだと思えたのです。
 
どんなゲームについて「そうしなければならない」と思わされてきたのかは、ここではあえて具体的には取り上げないでおきましょう。
ゲームジャンルの性質上、それはスポイラーになりえるからです。
 
翻って、「わたし自身」がゲームから語りかけられ、揺さぶられるということが起こった時、そしてまた、それを「受け入れなければならない、応えなければならない」と思わされるほどの真摯さがそこにあった時、私は、もはや逃げることが出来ず、「わたし自身」によって考え、答えを出さなければなりません。
 
私は、それをこわいと思いながら、苦しいと思いながら、けれどどこか待ち望んでいるかのように、そのゲームに向き合っていくのです。
 
 

 
 
さて、表題とした「私とゲームと、あるいは私という存在」についてのお話はこれにて一旦終わりとします。
本当は『拡張少女系トライナリー』について話すだけのつもりが、ほんの少しの欲を出したら、こんなことになってしまいました。
今さら後戻りするのももったいないので、やらなければならないと思ったことについては、走りきりたいと思います。
 
それでは、次の記事で。
 
 
 以下、参考
 

 

東京大学「ノイズ文化論」講義

東京大学「ノイズ文化論」講義

 

 

 

 

 

 
 
 
 

*1:ガールズ&パンツァー劇場版,1分40秒