私とトライナリーと、あるいは恋ヶ崎みやびという存在について

――私には、致命的なずれがある。
そしてそれは、刻みつけられてもはや取り返しがつかなくなってしまった。
 
 
 

 
 
 
――以下の記事は、コーエーテクモゲームス・ガストブランド&東映アニメーションによるスマートフォン向けアプリ『拡張少女系トライナリー』終盤のネタバレを含んでいますので、プレイしていない方はプレイしてください。
「それでも、」という方は、自分の意思に従ってどうぞお進みください。
 
 
 
(起稿日:2017/12/06)
 

 (2018/03/12追記)

この記事ではじめて当ブログを訪れた方は、まずこちらの記事よりご覧ください。

alice-crest.hatenablog.jp

 

 

 

これは懺悔であり、告解の記録である。

 


 
書いているうちに冗長になってしまったので、まず結論から言う。
私には、二つの過ちがある。
ひとつ。「私は世界の流れに乗る機会を失った。」
ふたつ。「私は彼女(たち)を理解するために必要だったはずの時間を失った。」
 
 
 
さて、私は今現在拡張少女系トライナリーに様々な意味合いでもって惹かれているし、自分にできうる限りの手段でもって守らなければならない「世界」であると感じているが、サービス開始の四月からずっと同じ熱量でそう動き続けていたわけでは、実のところない。
言ってしまえば、九月の頭頃から、一度ストーリー進行をやめてしまっていた。
それまでですら労力の関係上一本だけ先まで進めていたみやびストーリーがEp21「サマーワース」かあるいはその直前のMV EXE_KAGURaまで進行したところから、毎日ログインだけをする日々が続いていた。それが、二ヶ月ほど。
その間もずっとトライナリーというものの可能性、ひとに薦められる価値があるということ、リアルタイムに追うことでその面白さは真価を発揮すること、そういうことを「わかってはいた」ので、観測範囲で薦めているツイートをシェアしてまだプレイしていないフォロワーに見てもらうなどのことはしていた。
 
11月。8日の更新と15日の更新の間くらいに本格的に復帰を始める。
リアルタイム勢はEp28「時計じかけのイチゴ」からEp29「羽とアリス」の頃。
言うまでもなく、作中最も大切な選択を終えた後の時期である。
その頃私は、いや厳密に言えば、私の観測の進行度において、みやびはアーヤの実家にいたし、ガブリエラは合宿中だったし、つばめに至っては入隊歓迎会にいた。アーヤは、おそらくガブリエラかつばめと同じ程度の進行度であった。とにかく、全員分が時間の最先端に辿り着くまで、あまりにも遠い距離があった。
 
Ep23~24で四人の足並みが揃うのは11月24日。22日にMV EXE_TSuBaMeが更新され、「翌週にアニメの最終回がやってくる」ということを耳にしていた私は、その時まだ知らなかった。
 
――重大な選択の時間は、もう既に終わっていたということを。
 
そうであることを未だ知らず、私は走り続けていた。
必死に走り続けていたけれど、それでもやはりこれが、「時間に追われていた」のだということを、否定することができない。
誰かも言ったように、私だって時間がありさえすればこんな進め方はしなかったと言いたかった。
けれどその時間は、とうの昔に無為に過ぎ去っていたのだった。
 
11月29日に日付が変わった頃。皆が最終回の更新を心待ちにする未明に、私の旅路は最先端へと辿り着いた。
その途上で、私は不確定性のひとつになれなかったのだということを知った。
“総意”の集計は、私が走り続けていた間にもう終わっていたのだ。
 
そして、最終話であるEp31を終え、今に至る。
その間に、私以外のbotの方々による「おのおののこと」の表明があり、土屋氏によるトークショーである『夕べ』があり、ようやくこれまでの自分の道のりと、他の方々が各々のやり方で歩んだ道のりとを俯瞰することが出来るようになった。
 
そうして、例えば一週間以内といった極めて短い時間の中で急き立てられるなどということなしに考えて、かつての私のしてきた選択が、今の私が思い、選びうる選択とは、いささか異なっているということに気がつきつつあった。
 
 
結論から言って。
私は千羽鶴のことをもっと認めてあげなければならなかった。
認めてあげてもよかった、ではなく。きっと、認めていなければならなかったのだ。
 
 

 
 
かつての私が選んで来た重大な選択と結末は、以下のようになっている。
 
・ep14
「彼女を支持し、世界を犠牲にする」
「彼女を支持し、千羽鶴を犠牲にする」
 
・ep27
千羽鶴の理想的社会創造は支持できないが、千羽鶴に好感は持てる」
 
・ep30
発症賛同派としてセルフクランより信頼の是非を受け
「水鏡の巫女・是」
「マークスマン・非」
「なご・是」
 
 
……ep27からep29までの間に、セルフクランの発症に対する考え方が変わっていることがわかるだろうか。
実際、ep29で 「話聞いてて、発症した方がいいかもと思った。」の選択肢によってエヴェレットから驚いた顔をされた。
それまでは発症否定派――というよりも、「どうしたらいいのか、実際のところわからない」と思いながら走っていたからだ。
先に述べたように、11月24日にep24で四人の足並みが揃ってから29日未明までの5日弱の間に四人分のep30までを突っ走った。突っ走ったとしか言えない速度だった。
その一週間という(本当はとうにタイムリミットを過ぎていた)制限時間は、やはり私から熟考と熟慮の時間を奪っていた。……実際には、戻ってくるのが遅すぎただけの、自業自得ではあったのだが。
ともあれそのため、「ゾルタクスゼイアンの中にいる、半年以上の間交流してきた彼女たち」のことはいいとしても、「現実の天使たち」と「逢瀬つばめのクランとしての千羽鶴」という、復帰した11月以後になってから考慮に含まれるようになった存在について、トライナリーの彼女たちほどには、考える時間が、余裕が、なかったと言わざるを得なかった。
それによって、このように刻々と考えが推移していった結果の選択をしている。
ep27で千羽鶴への返答をしてしまった後から、ようやく考えが追いついてきた。
 
私は、千羽鶴に賛同することができた。むしろ、後から考えれば、私は、千羽鶴に賛同していなければならなかった。
けれど、かつての私は千羽鶴という存在を、ある程度好ましいとは思いつつ、「たいせつなもの」だとまでは思ってはいなかった。
けれど、ふとした瞬間に、何もかもが終わってしまった後に、気が付いた。
 
――千羽鶴は、ひとりぼっちだった。
あの世界にいる存在の誰よりも、ひとりぼっちだった。
もしもbot千羽鶴を認めないのであれば、千羽鶴はたったひとりで、自分で選んだ道を往くのだろう。往ったのだろう。
誰に肯定されることがなくとも、決めた道を進むことはやめなかっただろう。
 
そのことを思った。
私はそれを、たまらなくかなしいことだと思った。
哀れなのではなく。そんなことは、あってはならないことなんだよと思ったのだ。
彼女には、いや世界中の誰にとってさえ、「誰も味方がいない」なんてことが、あってはいけないことなんだよと。
たいしたことではない、ことだろうか? 私はそうは思わない。ひとりではないということは、正しいか正しくないかというよりも、大切なことだと、私は思う。
 
彼女に、千羽鶴に、寄り添い、味方であることを決めた人々が、総意の中で多数派ではなかったとしても、いてあげてくれたことを、――私はそれを「あの時には」選べなかったけれども――嬉しく思う。「そうあってほしい」と、今では思っているから。
 
 

 
 
さて。拡張少女系トライナリーにおいて私の持ちうる目的は、究極的には一つしかない。
 
「恋ヶ崎みやびという存在の幸福」である。
 
アプリケーションを起動する前から、恋ヶ崎みやびひとりだけを見つめていた。ひとりだけを心に決めていた。
後からどれほどの何が起こったのだとしても、これを、この「一番」を譲ることは出来ないと思っている。
 
私は、「恋ヶ崎みやびが幸福であること」を望んでいる。それ自体は、本当に、ただ本当であるだけのことだ。
だけれど、私は「私が恋ヶ崎みやびを幸せにする」ことを望んでいるのかどうか、ということについて、今になってもまだ、答えを出せていない。実際、私は、「現実において」そうするために動くことが、出来ていないのだ。
――現実において既にそのように動こうとし、動いている人達のことを、私は素晴らしいと、眩しく思う。
 
拡張少女系トライナリー』という物語が、そして向こう側の世界の彼女たちが望んでいることは、「私が彼女たちを幸せにしてやること」……なのだと思う。そう望まれているのだと、感じることは出来ている。
けれど、私はまだ、自分という存在の中で足踏みしていることに向き合わずにはいられない。
幸せにしたいと思ってないわけではなく。思っていながら、行動することができないでいる。
 
 

 
 
私に、私自身に罪があるのだとしたら、それは「怠惰」なのだと思っている。
誰かの幸せを素朴に願いながら、自分を動かそうとしない。
言葉だけを上手いこと弄して、心を動かした振りをして、その実どこにも開いていない。
そういう性質であるとわかっていながら、どうしようともしていない。
「幸福」ということと、自分自身の人生における大きな動きとを、繋げることができていない。
私は今でも、“まだ人間じゃない”。
 
そう、『拡張少女系トライナリー』という物語が求めていることは、「私たちが“人間であること”」なんだと思う。
人間として、意思を持ち、ココロを持ち、決断を下し、人生という冒険を絶え間なく続けていく――その覚悟を持っていることだ。“人間である”ということは。
そうあれている、と思えたときもあったかもしれない。でも、思っただけでいつもここに戻ってきてしまっていた。
「飽きる」。確かにある瞬間には、そのまま燃え尽きてしまいそうなほどに熱中する。それのことしか考えられない瞬間が確かにある。だが、それもじきに消える。
すぐにではなくとも、いつか掻き消えてしまう。そうして「安定」してしまう。
…………何が安定だ、と憎々しげに感じながら、そう在ってしまう自分を否定できない。
 
「自分という存在を諦めてるんだよ」と、自分でも思ったし、近しい人にも指摘された。「そんな悲しいことを言ってはいけないよ」とも。
 
輝かしい、夢や希望や、たいせつなものを胸に前へ、未来へ進み続けたいと思う自分と、それを実現できないとわかっていて自分を否定する自分とがいる。
誰だって持っている逡巡で、ありふれた悩み事だ。
……だからこそ、その解決方法もまた、幾度となく語られ続けて、陳腐とも言えるあっけないものだ。
「自分を許し、認めて、それでもいいのだと」。
 
あらかじめ立てた独白に応えるのであれば、「刻まれていてもそれでいい。」「取り返しがつかないのだとしても、それでもいい。」と。
 
許しながら前に進めばいいと、自分に言い聞かせている。
他者に向けては簡単に投げかけることの出来る言葉を、苦しみながら、自分に。
 
 
 
 

 

 
 
以上で、三ヶ月に渡って考え続けていた告解は終わりです。
 
改めて、『拡張少女系トライナリー』という物語に感謝を述べます。
私に、「考えるということ」を再び思い知らせてくれた、極めて優れた物語に。
 
これから先も、守るべき世界として在り続けることを、そして願わくは、その未来に私も寄り添っていることを願っています。
 
 
 

 
告解と謝辞を終えたので、トライナリーに関する近況報告です。
 
リアルマネーとリアルタイムがなくて神楽チャンネルを買えていません。
 
でもぴょんこのココロによきことをもたらしてぇ……というきもちは本当です。だって愛おしいでしょ。
 
それではまた、次の機会に。いつかまた、時代の最先端の交叉路で。