だから僕達は「■■」を手放す、という祈り

 
 
結論から言って。これこそが、「祈り」なのだろうと思う。
つまり、「わたしたちはひとりではない」ということの意味が、ここにある。
 
 
 

 
 
この記事にはコーエーテクモゲームスガストブランド・東映アニメーションの送るソーシャルアプリ拡張少女系トライナリー神楽チャンネルのネタバレが含まれています。
神楽チャンネルep21に到達していない方は今から取り組むか、あるいはそうではなければ自己責任で突っ走ってください。
 
 

 

 


 
神楽チャンネル二度目の、パラメトリック理論に基づく世界進行法、マージの時間があと24時間もせずに刻限を迎えます。
 
このep21の世界選択の意味は、意図はどこにあるのか、誰もが考えたと思います。
皆さんが考え、こうではないかと提示された考えの中に、私もそうだなと納得できるものを見出したので、むしろ自分のために、書き留めるべきことを書き留めておこうと思います。
 
同様の意見は様々ありますが、選択参加者の絶対数から結果のシミュレーションまでを行ってそれぞれのルートでどれを選べばどうなるであろうかということを想定してみたものとして以下の記事がわかりやすく参考になりました。
 
 
ぜろいちのブログ - トライナリー|ep21の世界進行法について
 
今回の選択では、「世界選択ルートを選んでいる人々にとって」と「イチャラブルートを選んでいる人々にとって」の二通りで、それぞれ
『関わりたくて選びたくても選べない、「このわたしには」選ぶ権利がない』選択が存在するわけですね。
そして、それぞれのルートにおいて「失わせないようにしようとする」選択は存在するわけです。
誰も犠牲にならないようにと、あるいは、出来るだけ犠牲などない方がいいと、あるいは、助けを求めているものが助けられるものならば出来る限り助けた上で、可能性の話を、未来の話をしてみたいと思うのであれば、それぞれの「失わせないようにしようとする」選択が選ばれれば良いであろう、ということです。
 
私が注目しているのは、「拡張少女系トライナリー」で行われてきた今までの総意選択よりももっと、今回の選択は「他者の存在」が前提的になっている、あるいは、それこそが目的の一部になっているのではないか、ということです。
言ってしまえば、今までの総意選択は、「あなたはどうするのか」を──なんとなれば、それは孤独にたったひとりで、それがどれだけ「わたしにとっての世界だけ」を見ている独善的なものであったとしても──選べば“それだけでよかった”と言えてしまうのです。今回の構造と比較をするのであれば。
 

 
神楽チャンネルでやってきたことを思い起こす中で、今回の選択と密接な関係を持っているのは、異世界戦争のボタン》の思考実験です。
同じことであるというよりはむしろ、「実演」にして「再演」であると言えるでしょう。
 
異世界戦争のボタンを押せば、戦争の相手の世界は滅び、自分の世界は守られる。
ボタンを押さなければ、ボタンを押した相手から滅ぼされ、跡形もなく消え去る。
互いにボタンを押し合えば、反発するエネルギーで互いの世界が傷ついていく。
互いにボタンを押さないでいれば、何も起こらない。
 
仮に相手側の世界がボタンを押すことが決まっていた/わかっていた場合、自分の世界は「消え去る/傷つく」という、いずれにしても何かを失うことになる二択を迫られます。
「失わせないようにしようとする」行動は、両者の世界を共に考慮に入れたときには、「互いにボタンを押さないでいる」ことひとつしかありません。
そこに、その選択が選ばれるのに必要なのは、紛れもなく「祈り」です。
よきことよりももっと、よりよきことがありますようにという祈り。
わたしだけではなく、あなたにもよきことがありますようにという祈り。
どうか誰にとっても、失われることの悲しみがないようにという祈り。
 

 
ぴょんこのことしか考えたいと思わない人にとっては、つばめの残留思念も千羽鶴も、どうでもいいことかもしれない。
千羽鶴のことしか考えたいと思わない人にとっては、つばめの残留思念もぴょんこも、どうでもいいことかもしれない。
 
けれど、そのどうでもいい選択次第で、どこかの誰かが死ぬほど欲していた、自分では手が届かなかった救いがもたらされるかもしれない。
「助けられるものならば、誰もを助けたい」と願う誰かの、“どうか”という祈りが報われるのかもしれない。
その、他者を信じ、必ずしも自分を利することはないかもしれなくとも他者を利し、よりよきことに一歩ずつ歩み寄る思いが、
ひょっとしたら全てを救ってしまうかもしれない。
 
そして今回は、二つの立場に分断されていると言うよりもむしろ、二つの立場に分断されたことによって二つの立場から同時に、別々の行動で救いをもたらすことが出来るのではないか、ということが、肝心なのです。
 
だから、自分の想いを述べるのであれば。
立場の違うわたしたちだけれど、それぞれに「よりよきこと」があるであろう選択を考えてみてほしいのです。
わたしもわたしなりに、考えていきますから。
 
ただし、ひとつ言っておくとすれば、わたしの提言するこれは、あくまで「祈り」であって──どこまでいっても他者を制することの出来るものではないと、わたし自身わかっています。
ですから、考えてみてもいいと思う人だけでも、そうした、世界についての祈りということについて、どうか思っていてほしいと願います。
 

 
これこそが、「祈り」なのだろうと思うのです。そして明日の世界もまた、善くあるようにという祈り。
 
つまり、「わたしたちはひとりではない」ということの意味が、ここにあります。
 
わたしたちはひとりではなかったからこそ、ひとりでは選べなかったことを選び、組み合わせ、手を伸ばすことが出来るのでしょうから。

 
 
 
それでは、明日の世界でお会いしましょう。