かつてと明日と、それからの何かについて #トラカレ2019冬

 
このたびは当ブログにお越しいただきありがとうございます。
つわぶき すずり (@frostlet2236)と申します。
 
こちらの記事はそぉい様主催の拡張少女系トライナリーファン企画である「#トラカレ2019冬」へ寄稿するものとなります。
これまで第一回、第二回と行われてきたこちらの企画ですが、枠に空きが見受けられたためにこれはいい機会、第一回第二回は眺めていただけだった私もやってみようと、えいやっと、久しぶりに文章を書こうという気持ちを燃やしてHuntsmanを叩いています、いま……
そぉい様、今回も企画をありがとうございます。そして無事に開催されていることにおめでとうございます、と!
 
 
前置きはこのあたりにいたしまして、以下、ブログ記事本編となります。
 
最後のブログ更新から一年六ヶ月が経過したので初投稿です。
 
 

 


 
 
それでも私は、「ゲーマー」であれたでしょうか。
つねにうつくしいそのゲームたちに、私は胸を張れる自分でありたいと思いました。
 
 

 
 

【本編の、まえがき】

拡張少女系トライナリーは、愛され続けているよなあ、と思います。
情熱を以て創り上げられたものだったからこそ、それに胸打たれた多くの人々が言葉を募らせ続けているんだよなあ、と思うのです。
 
私もそのうちの一人だと思います。……むしろ、私もその一員でいられていると、信じていたいです。
私よりももっと強く焦がれたひとがいて、私よりももっと長くあの世界に触れ合い続けていたひとがいて、
そういったひとたちに私の在り方は及ばないものだと思うけれど。
でも、同じものをきっと見ていた同志として、私はその末席にありたいと密かに思っているのです。
 
 
ところで、拡張少女系トライナリーにまつわることを書くのが「トラカレ」なわけなんですが、そぉいさんが「トライナリーにかすってさえいればどんなコンテンツでも可です」って言ってたので、本当にトライナリーにかすってさえいればいいギリギリのコンテンツになる予定です。今書いてます。ほんとか? まあ隙あらばトラ語りはしますよもちろん。
 
どんな話なのかと言うと……トラカレへ寄稿される方々は主に「トライナリーを見てきて、トライナリーについて心に思ったこと」を述べられる方が比較的には多いんじゃないかと思うのですけれども、私は、「トライナリーを見てきたからこそ思う、他の色々な作品や日常生活において心に思ったこと」を述べるという変化球な感じで行こうかと思います。なぜならば、私にとってのトライナリーもまた、多くの熱意持つひとたちと同じように、人生に濃い影を落としたものだったからです。その点については、誰が何を思おうが、と言わなければならない点なのです。
 
トライナリーがいた日々を過ごしてから、私は、トライナリーをまだ知らなかった日々から全く違う存在になったと思います。
だから、何もかも「トライナリーを知った自分」を通して感じてしまう。
「トラみを感じる」とか、「実質トライナリー」とか、時に口にされる方もおられるかと思います。
他の方々の言い方とは少し違いはするのですが、私はそういうのをよくやってしまうたちなのです。それこそが、私達が確かに刻みつけられたものを「忘れちゃいない」のだと世界に叫ぶための一つの方法だと思うからです。
……でも、節度は守りますよ? それぞれの作品の存在そのものを毀損するような形にはならない程度で……でしょうかね。
 
 

 
 
さてこのたびは、トライナリーを知った自分がそれから触れた様々な作品について、「トライナリーに触れたからこそ”強く”感じ入ることができているんだよなあ」と思うことができたものについて語り倒す隙自語の記事となります。
トライナリーの彼女たちの話と思ってお越しいただいた方々にとっては少々面食らうかもしれませんが、よろしければご覧ください。
そして、もし興味が湧かれまして、ここで紹介したいくつかの作品について、手をかけてもらうことができたならば、私にとっては本望と存じます。
 
あらかじめ申し上げておきますが、これから紹介するいくつかの作品については、2017年以前に触れたもの、2017年以前に発表されたものが含まれています。
そういったものに対して「トライナリーを経て」っていうのはおかしくないか、と思われる向きもあるかと思いますが、実際のところ発表された時期と私が触れた時期がまったくずれていたり、2017年以後にもう一度通して見た、といったことが往々にしてありますので、そういう自分になったからこそもう一度”強く”感じ入ることができたんだなあという、「時系列の素晴らしき混乱」とでも言える事象だと思っておいていただければと思います。
 
 
ところで、私の好きなものとして挙げられるものは、これまでのブログ記事で申し上げているとおり、「ゲーム」と「MAD」なんですよね。
それも、抽象度の高まった、「ジャンル:ゲーム」であればなお響いています。
ここで言う「ジャンル:ゲーム」とは、「ゲームであること」そのものを以て、我々の認識に何かを問いかけるものという意味で用いています。
卑近な言い方を用いれば「メタフィクション」と言われるジャンルかもしれません。個人的に好ましい言い回しではありませんが。
ただし、トライナリーを経てきた皆様方にとっては、「ゲームの登場人物にプレイヤー自身を認識させてしまえば面白い」などといった極めて安易な考え方、”ただそれだけ”では、到底面白い体験には感じられないといったこともあるかもしれません。(ここで言う安易とは、ゲーム制作者が「そのように」キャラクターを制作「できてしまう」ことを指しているつもりです)
私は、ゲームというものが好きですから、トライナリーについても、「ゲームであること」を否定することなく、”それでも”、我々の認識に何かを問いかけ、我々の人生に、何かを与えてくれた存在だと思っていたいのです。
 
 

 
 
前置きが長くなりました、
今回はMAD、静止画MADについて取り上げることが多いかと思います。
もともと好きな静止画MADを紹介する記事は書きたかったのですが、好きで、人に紹介してみたいと思える作品は、大抵が人生に対してなんらかの示唆を与える類のものであって、隙自語の性質を強く帯びるものですから、どちらかというと自分の言いたいことを好きに喋れるこういった記事のほうが都合の良いものもあり、特にトライナリーの影響は人生に対して顕著なもので。
 
 
さて、静止画MADという十数年の歴史がある分野について、数年の鑑賞者でしかない私が語ることのできることはあまり多くはありませんが、特筆して紹介したいという作家が三人います。
静止画MADという存在を私に教え、いくつもの傑作を作り上げた軍魔氏、
極めて精緻な質感の静止画MADで私を魅了したPluvia氏、
今となっては遥か昔、西暦2000年に多くの者に静止画MADというものを知らしめていた乃怒亞女氏。
主にこの御三方の作品を紹介していきます。
 

 

【MAD】 遠い空の向こうに―― 【そして明日の世界より――

制作:軍魔 発表:2008年
 
 
それは世界の残酷さと俺達の弱さを思い知らされる日々。
何よりも恐ろしいのは 恐怖に負けたときの自分だった。
 
 
一番手からなんなんですがこれは本当にまず見ていただきたい。本当にまず。
そして、これを初めて目にしたのは2011年か2012年かそこらだったかと思われるのですが、原作である「そして明日の世界より──」をプレイする前から、この物語は美しいと確信させられるものでした。
初めてこの動画を目にしたとき、自分で「そして明日の世界より──」をプレイし終えたとき、そしてトライナリーを経験したとき。
それぞれにそれぞれの「感じられること」があって、それぞれで心が締め付けられ、顔がこわばってしまうのでした。
ここで感じたのは主に、「どう生きるべきか」「どう生きていかなければならないのか」といったことで……
 
拡張少女系トライナリーにおいて私達は、何を選択するかということももちろんですが、自分はどのように自分を律し、どのように生きることでその選択を果たしたのかを根本的に見つめ直すことになったということもあったかと思います。
「世界の終わり」、「大切なひと」。あるいは、「世界の悪意」。
そういったものに立ち向かう自分であるには、どうしたらいいんだろう。強くあるには、どうしたらいいんだろう。
トライナリーに触れる中で私が常に追い立てられていたのは、そういうことでした。
今までの漫然とした生き方、「何かを選ぶために別の何かは切り捨てられなければならない」という可能性を考えもしなかった自分の生き方、そのままではいられないと思い知った日々。
泣き叫びながら終わりの時まで走り続けて、それから、今に至るまでとにかく前へ進もうと思い続けて、少しは善き自分で在れているかなと思っています。思っていたいですね。
一本だけでめっちゃ長くなったので次行きます。
 
 
 

【MAD】 願い、空を舞う 【Rewrite

制作:軍魔 発表:2012年
 
 

【MAD】 Black Swan ~さいはてにて~ 【Rewrite

制作:軍魔 発表:2014年
 
 
大切なものがひとつだけあればよかった。
 
過ぎたことばかりを美しくしてしまうのは、人の悪いくせだ。
けど、俺はそれを、この先へも持って行きたかった。
 
 
Rewriteという作品から何を感じるの? ということは、人によって色々異なるのかなあと思います。
私にとってはやはり、原作冒頭の、天王寺瑚太朗の独白から感じられた、「失われていた」ということに気づく切なさが、大きいところなのかなあと思います。
 
ある時、何も持っていないことに気付いた。
幸せが詰まっていると思っていたポケットは、実はからっぽだった。
そこに何を詰める努力もしてこなかったんだから、当然だ。
でも俺は、そんなことさえわからなかった。
漫然とした、中身のない人生を歩いてきたからだ。
そしてある日突然、自分がたくさんの時間を失っていると感じた。
Key『Rewrite天王寺瑚太朗
 
私がトライナリーに触れていた日々の中で「たくさんの時間を失って」いたことがあったということは、以前までのブログ記事で申し上げたとおりです。
別にただそれだけ一点のみが共振したセンチメンタリズムだったわけでもないのですが、Rewriteにおける「失われてしまったもの」をいたむ気持ちというものは、トライナリーにおける「わたし」の在り方に近しいものを感じたものです。
 
それから、言うなれば……ヒロインの一人であり『Black Swan ~さいはてにて~』においては主軸に据えられている千里朱音という存在は、「向こう側の世界」の事情と重ねても思うところがあり、本当に、この人は、本当に……と顔を覆うことになるのです。
 
「大切なものがひとつだけあればよかった。」
「大切なものがひとつだけあればよかった。」
「大切なものがひとつだけあればよかった。」
私自身、この言葉をうわごとのように繰り返した日がありました。
本当に、そうであれば、本当はそうだったのであれば、どれほど苦しみを感じずに済んだことでしょうか。
でも、そうではなかったからこそ……。
 
次の作品です。
 
 

【MAD】水の中の三月【はるかぜどりに、とまりぎを。】

制作:軍魔 発表:2017年
 
 
 
ボクらは生きる意味を探している。
 
明日が今日よりも良い日になればいい。一日の終りに、よく思った。
 
 
遠い空の向こうに──』から続く終末三部作の第二作。
テーマ的に『Black Swan ~さいはてにて~』とつながる小ネタがあるとかないとか?
 
原作をプレイできていないので表現的に読み取れる部分しか解釈はできませんが、終わりゆく日々、失われていく大切な存在とどうやって生きていけばいいのかを考えるという点において、やはり「できることをやる」のだということ、何もかもを解決する一手はなく、ただ歩き続けるしかないのだということを、美しい表現で見せられたなと思うのでした。
プレイしたいのですけれどね。
 
 

【MAD】 ずっと探してたもの ~Revival Edition~ 【AIR

制作:軍魔 発表:2011年
 
 
最後は…どうか、幸せな記憶を。
 
 
余談ですが、この動画『ずっと探してたもの』は原作版『AIR』リリース当時の静止画ver、2005年のTVアニメ放送当時の動画ver、そして2011年の静止画verリメイクと少なくとも3つのverがあります。以上、オタク特有の早口余談終了。
 
AIR』という作品については、もうオタクとして何を言うまでもないものなのですが、Twitterフォローの中で『AIR』に言及するKeyファンの方の感想に印象深いものがあり、それが私にとっての最も強いインプレッションになっているので、以下に引用します。
 

 

 
「彼女を救う選択肢を失う」。
AIR』の最後には、プレイヤーは祈ることしかできない。
彼女の迎えた最後の時が、せめて幸せであったことを……。
 
……ところで、トライナリーに「祈り」を捧げたかったことが、かつてありました。
 
はっきりと申し上げますが、2018年5月時点でのこの私の思いは、今となってはまったくもって「そうは思えない」と感じるものになっています
なぜならば、先の記事における「祈り」とは、結局の所「私にとっての最も都合の良い未来のことを、君たちも共に願ってほしい」という主張に過ぎないと思えるからです。
たとえそれが、「同じ彼女たち」の幸福を願うものだったとしてもです。
誰かの幸福を願う祈り、だからこそ、その願いが生まれてくる処には慎重にならなければならないと今は思います。
決断することが怖いという過去から今、自分の拠って立つ場所の責任を自覚していかなければならないと思っています。
 
 

【MAD】I'm Not Scared【リトルバスターズ!

制作:軍魔 発表:2007年
(本人投稿動画なし)
 
 
「…いいよな…これで?」
 
 
『「…いいよな…これで?」じゃねーよ! おめーがここにいねーんだよ!!』
 
……失礼しました。
この(原作リトルバスターズ!における)シチュエーションとは厳密には合致しない話なのですが、「自分なんかいなくなってもいいんだ」という諦念を抱いてしまった人に対してこういうことを言ってしまいたくなる青さがやっぱり私は捨てられなくてですね……。
 
少し脱線した話をすると、先日OVA『フラグタイム』を観てきました。今般話題になっておりますアニメーションです。

 

全く何の前情報もなく……まあ、OVAあさがおと加瀬さん。』を手掛けた佐藤卓哉監督による劇場公開OVAプロジェクト再びということで、あれが好きだった人に良い感じのものなのかなということでササッと観に行ったのですが、百合だとか女女だとかそれ以前に村上遥という存在によって打ちのめされてしまってサントラと主題歌買って帰りました

 

この記事が公開される2019年12月18日の翌日には期間限定上映も終了するというのに劇場で見てくれとかいうのもあれな話なのですが(原作を読もうという話ではある)、この村上遥という存在がまたかつての誰かをちくちくと刺すもので……
 
「私には何もないから」とか、「みんなが幸せならいいんだ」とか、そう言って寂しそうに微笑む少女、いますよね。
「彼女たちがそう」と言うわけではないんですけども近年で言うと瀬田薫とか白瀬咲耶とかの王子様キャラであるとか、自分の苦労やわがままな願いなんて誰かの願いが叶ってもたらされる笑顔に比べればなんでもないって何でも背負い込んでしまう滅私の心、『正義の味方』、『幸福の王子』……
 
 
愛するものが死んだ時には、自殺しなきゃあなりません。 
愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業が深くて、なおもながらうことともなったら、
奉仕の気持に、なることなんです。奉仕の気持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
中原中也『春日狂想』
 
 
……ああ、それは、私なんだ。
恋ヶ崎みやびに出会う前の、私だったんです。
自分のことなんかいいんだ、誰かを幸せにできればそれでいい、当時の私は本気でそう思っていました。
けれど、誰かを幸せにするために、「誰かから幸せにしてもらう自分」でもなければならないこともある。
とてつもなく臭い言い方であることを承知で言えば、「人を愛すること」っていうのは、そういうことのはずだということに、それから気づいたのです。
私は、変わっていかなければならなかった。彼女にふさわしい私で在るために。
自分を変える、ということを受け入れる強さを持たなければならなかったのです。
拡張少女系トライナリー、そして恋ヶ崎みやびという存在によって私は変わっていかなければならないと決断をすることができたのです。
私にとってそれは、現実に、救いのように感じられたのです。
……ということを繰り返し、繰り返し……(以下略)
 
 

【MAD】 少年は虹を渡る 【ジサツのための101の方法】

制作:軍魔 発表:2018年
 
 
「いいんだ」
「もう、そんなことは関係ないんだ。俺はお前が好きだ」
「だから、いいんだ」
 
 
そして、歩き始めたのです。
 
 

 
軍魔氏の作品についてはこのあたりで。
書いててこの時点での分量にビビってますがもう少し続きます。もう少し?
軍魔氏の作品には私好みのセンチメンタリズムというか、世界の残酷さと切ない感傷とそれでも在るほのかな優しさと……そういうものがあって好きで好きでたまらないです。技術があるなあというだけではなく。
軍魔氏は2000年前後から活動を初めて2019年現在まで159件の作品を制作しておりますので、ここまでの紹介で興味を持たれましたらぜひ色んな作品を見てみてほしいです。
紹介したやつだけじゃなくて好きだったりすごかったりするものはあるんですよ……(オタク特有の早口)
 
それでは、続いてPluvia氏の作品より厳選して三本ほどお送りします。
 

 
 

【MAD】「終末思想の夜と幸福の向日葵畑」【素晴らしき日々

制作:Pluvia 発表:2014年
 
 
ただ幸福に溺れることなく
この世界に絶望することなく
人は先に進む たったひとつの思いを心に刻み込まれて
全ての生命を命じる刻印
その刻印には ただ、こう刻まれている
人よ 等しく 幸福に生きよ!
 
 
Pluvia氏の傑作のひとつです。ピクチュア、テキスト、エフェクト、あらゆる構成要素を緻密に詰め込んだ、『素晴らしき日々~不連続存在~』という作品をこの上なく魅力的に見せつける映像でした。
これのおかげで私は「名作と聞いてなんとなく気になっている」程度だった素晴らしき日々に確信を持って手をかけることができたのです。本当に感謝です(ちなみに実際にプレイできたのは2015年です)
 
今となって思うのですが、この『素晴らしき日々』で語られる「幸福に生きよ」というテーマを、当時の私はやはり上手く消化することができずに言葉だけを振り回していたような気がします。
「幸福に生きよ、幸福に生きよ……」
そう繰り返し口にしながら、「幸福に生きる」って何? ということを自分の人生をかけて考えることはできていなかったと思うのです。
やたらに「幸福に生きよ!」とか口にする中学生みたいな……今思うとちょっと痛いというか……うう……
 
 
「書き割りの様なチープで出来損ないの夢の世界……」
「それでも、そこであなたと過ごせた時間は、間違いなく……」
素晴らしき日々でした」
ケロQ素晴らしき日々~不連続存在~』高島ざくろ
 
 
そして、人生という冒険は続く。
 
 

【MAD】「因果交流電燈と模倣芸術の櫻」【サクラノ詩

制作:Pluvia 発表:2015年
 
 
どこまでもどこまでも続く道
俺たちはゆっくりと歩む
 
 
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度までみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
 
 
この記事の中で既に示唆・引用した中原中也オスカー・ワイルドも、この『サクラノ詩』の中で引用されたものです。
この動画を見たのが2015年末、原作『サクラノ詩』をプレイしたのがつい先日2019年のことですから、トライナリーとともに在った2017年以後を挟んでずっと焦がれていたのがこの物語を読むことだったと言えるでしょう。
サクラノ詩』でテーマとされているのは、必ずしも特別なことがあるわけではない人生を生きていくというのもまた、人生だということ。
 
 
「一番うまくやっている時、一番まともな時が、一番クソなんだよ。」
「だって、うまくいっていることに気づかないからさ。これが普通だと思ってしまうから。」
「きらきらとした人生が普通なんて、まともじゃない。」
「でも、まともじゃないことに気が付かない。すべてが光っているから。」
「まぶしすぎるから、見ることができない。」
「一番うまくいってないとき、一番クソなときが、一番生きている時なんだよ。」
「イケているから苦しむんだよ。」
「世の中のクソみたいなものは大事だ。それが感じられているのなら、それは最高の生き方だ。」
「人にとって、度が過ぎた幸福は、苦痛でしかなく、また、苦痛自体も幸福と背中合わせのものでしかない」
枕『サクラノ詩』草薙直哉
 
 
それでも人よ、幸福に。
 

【MAD】夏蝶のピノキオ【Summer Pockets

制作:Pluvia 発表:2018年
 
 
ああ、この夏は
こんなにも、眩しかったんだ
 
 
ねえ まだ 世界は切り離しちゃくれないさ
泣きたいくらいに眩しい朝だ
素晴らしい新しい朝だ
分島花音『自由落下とピノキオ』
 
 
この作品は、Pluvia氏の活動の一区切りと発表されています。集大成にふさわしいものだと、素人の私でも思います。
動画から感じられる物語のテーマからも、氏の「美しいと思うもの」が詰め込まれたものなのだなと感じられます。
大切なものを守るための、決意。それは美しく、切ないものだと感じられます。
 
この世界から消えてなくなる、やはりそれは、とても辛いことです──。
 

 
 
なんか執筆前に想定していたよりもトラ語りができてない気がします! 当然か!
 
 
最後に、静止画MAD文化黎明期に少数ながら珠玉の作品を残し、2001年に引退された乃怒亞女氏の作品をご紹介します。
この方のことを私が知ったのは2016年ほどにもなったころのことですから、15年越しに知ることになったという、なんとも言えない乗り遅れ感がどうしてもあるのですが……
 
 

 
 

「13'+E⊿eN」

制作:乃怒亞女 発表:2001年?
 
 
「大好きだよ」
その言葉を信じて、いつか、幸せになってもいいですか?
 
 
Tactics『ONE~輝く季節へ~』、Key『Kanon』という西暦2000年の泣きゲーを象徴していたと言っても過言ではない存在、その両方を氏独特のセンチメンタリズムとポエトリーで結びつけたのがこの作品、「13'+E⊿eN」です。
もはやトラ要素どこって感じに思われるかもしれないのですけれど、トラに触れることとなる2016年以後の自分が「まさにその時期に出会ってしまった」のがこれだったのです。
冬が終わり、春が始まり、恋が終わり、愛が始まるという、出会いと別れ。
乃怒亞女氏の作品に2001年当時に出会い、人生を大きく曲げられた人(それ以後の静止画MAD制作者達)が何人もいた(のだろうと、静止画MAD考古学をやっている中で強く感じました)ということを思うと、
ある誰かが創り上げたなにかに美しさを感じ、その詩情、感傷、感情を自分の内に取り込んで人生とするそのストリームと言うべきものに、それは今でも同じのはずだよという確かなものを感じるのです。
 
 

「ConcLude:Another Style Abyss-infinite rhyme」

制作:乃怒亞女 発表:2001年?
 
 
どうしようもないこの世界で
唯一、本当に頼れるのは
どうしようもなく頼りない自分だけだ
 
 
「いつか、幸せになれるといいね」
 
 
「13'+E⊿eN」が詩情の創造だったならば、氏の最終作であったこの「ConcLude:Another Style Abyss-infinite rhyme」は破壊の詩情だったのでしょう。
明白に『少女革命ウテナ』の影響のもとにKey『AIR』の呪わしい側面を描き出したこの作品は、世紀末を越え終わらなかった世界と「わたしたち」を重ね合わせる、自己表現的なものとも言われています。
 
 
感じ入ることは様々にあるのですけれども、今になって思うことは、「13'+E⊿eN」という切なくも希望を信じたいと謳う希望の描かれた作品から、「ConcLude:Another Style Abyss-infinite rhyme」という破滅的で自罰的な感情へと氏の懐く詩情が移り変わったことには、FreyMENOWのアルバムWishrealとWishphobiaの移り変わりを重ね合わせる事ができるのではないかということです。
『Wishreal』制作当時のFreyMENOWは、あたたかく希望あふれたファンタジックヒーリングな世界を想像するということにより生きることへの前向きな想いを抱くことができていましたが、現実の様々な要因から『Wishphobia』のようなファンタジックメタルも世界の想像として生み出すようになっていきます(それぞれのアルバムは全曲がこちらの異世界に輸入されているわけではありませんが……)。
これらの楽曲群に見られる違い、それが何故移り変わっていったのか、それは、「世界に向ける視線」が移り変わっていったことが要因に挙げられるかと思います。
傾向で話をしますと、ファンタジーヒーリングというジャンルは「まだ見ぬ世界への好奇心/あるいは足元を確かに踏みしめる力強さ」により希望が謳われ、ファンタジックメタルというジャンルは「遠く見渡した世界の罪科/あるいは閉じ込められた世界の閉塞」により絶望が謳われるもの……FreyMENOW異世界輸入盤のそれぞれの詞からはそのようなものが感じられました。
自分の立たされた現実の有り様に拠って、内面を写す鏡は様々な詩情を映し出してしまうものです。
私なりに思うならば、ミクロに世界を見つめ酸いも甘いも清濁併せ呑み、「自分」を以て世界に向き合うということと、メタ/マクロに世界を見渡し、広く穢い世界にちっぽけな自分の存在に心細くなってしまうこと、と言えるのではないかと思います。
メタ/マクロに世界を見渡し始めてしまうと世界の穢い面しか見えなくなってしまうというのは、何につけあり得ることだと私は思います。現実の苦境に追い詰められ精神を弱らせてしまった彼女が自分自身を無条件に肯定する力を失い、「自分の思い」ではなく「世界の罪悪」を想像するようになったことについて、私は何よりもそれを哀しかったことだと思うのです。
こうやって書くとまるでファンタジックメタルというジャンル自体を彼女にとっての弱さと悪の象徴として語るようですが、かの昏い想像も自分の世界観を創り上げていく中で避けては通れないものではあるとは思うのです。世界は自分だけでできているものではなく、ままならない他者との折り合いと触れ合いが人生を進めていくものなのでしょうから。
最終的に『Wishphobia』の楽曲はトライナリーの四人の少女とぶつかり合い、FreyMENOW自身の中からは失われていたココロを生み、全く新しい地平を切り開いていくことになるわけです。
 
 

 
 
最後にやっとまともなトラ語りが出てきた気がします。これ思いついといてよかったって言っていいですか?
 
 
さて、ひとまず紹介したい作品群としてはこのくらいかと思いますし締切が近いので長くなったこの記事もこのあたりで締めとしたいと思います。
 
アドベントカレンダー主催者のそぉい様含めこの記事を読んでくださった皆様方には、純粋トライナリー成分2、3割程度の記事を読んでいただいたことに平身低頭する他ありません。
でも、私にとってトライナリーによってココロの在り様を変えられたことというのは、これから先読んでいく全ての物語に対してある視座を与えた偉大にして大切なものだったのだということだけは言わなければならない点なのです。
すべての人に感謝を。大切に思う皆様に、この記事を捧げます。
 
どうか皆様が、これから先も美しいものと出会い、希望を持って生きていけることをここに祈ります。
 
 
それでは、また。
 
 
 
 

 
 P.S.
みやび。わたしはエンジニアになったぞ。