「諦念」と「それでも」のあいだに

 
 
先の土曜日――12月16日――は、近しい奴らで集まっての飲み会でした。
ある奴曰く『人間のガワを取っ払ってしゃべれる』奴らです。ワタシもそう思います。
 
「隙あらば自分語り」「いいよ」
 
そういうログです。
 

 


 
 
大学を卒業するにあたり、卒業論文を書きました。
論文にはその分野においての語りのベースとなる先行研究への理解と、その先行研究から妥当な論理を導く判断力が必要になるわけですが、まあこういった学術的な語りに限らず、「正しいこと」を希求して語るという行為は、時には苦痛を伴うほどに絶えざる『判断』が要求されるのですね。
「これは正しいのか? 誤ってはいないか?」これを精査し続けて、いずれ「妥当であること」に辿り着きます。辿り着けたらいいですね。
研究どころではなく日々のあらゆることについて「これは正しいのか?」という『判断』を続けていくと、限りなく間違いを起こしにくい生き方になるのかもしれません。ただし、それはとてもつらいと思います。けれど、それが「よきひと」の要件であったりするもので……。
 
さて、卒論はかのゼミにおいては割と評価されて、公聴会に際してゼミ生を前にして一言コメントをすることになったわけですが、私は卒論を書いている間中ずっと思い続けていたことを、ででんと、端的に述べたのでした。
 
「断言は、こわいよ。」
 
 
とあるものごとについて論理や事実の精査無しに脳直で出した主観的な推論というのは、たいてい客観的な事実に対する誤りや誤解が含まれていたり、また過度に断定的であったりします。というか、そういう風に言ったとしたらという話なので、当然なんですが。
研究的な論理の追求においてはそんな「妥当ではない」ロジックは批判の対象であり、そういった事実に基づかない断言というものは――人を傷つけることもあります。
私はそんな断言を「卒業論文にはあってはならない」と恐れると同時、「人を傷つけてはならない」からとより広範な意味で、「断言はこわい」と感じながら息をしていました。それは、いつから始まったかは今となっては判然としません。『人にやさしく』というありようを追求した結果勝手にそうなったのかもしれませんし、やはり卒業論文などというストレッサーからそう思わされたのかもしれません。
ともあれそうして、「断言は、こわいよ。」という言葉は、いつの間にか、しかしとても強く内面化されたのです。
 
 
 
2015年、私はとある小説に出会います。
――『愚者のジャンクション』。
「復讐はいけないことか?」と問う復讐者にまつわる物語ですが、この作品におけるキーパーソンのひとり、“記者”夜月は、印象的な台詞として以下のように繰り返し述べています。
 
「この世に真実などない。あるのはただの事実と、それぞれに都合の良い解釈だけだ。」
――『愚者のジャンクション -side friendship-』(耳目口司,2015: KindleLoc350)
 
あの時、この一文を読み上げた時、私はこの一文に、現実の受け止め方を学ぶことができたような気がしてしまいました。
現実に起こる様々な出来事に対する、きっとたったひとつではなかったはずの冴えたやりかたとして、これを遣うことを選び出してしまったのです。
私は、この言葉を内面化しました。――強く強くそうしていたことに、後になってから気が付きました、
断言できることがあるとすれば、間違いないことがあるとすれば、それは事実が事実であるということだけ。
そこから先は、それぞれに都合のいい解釈でしかないと。
しかしそれは実のところ、“記者”たる夜月のスタンスから言えば妥当ではない、誤った方法論だったのかもしれないと、今は考えています。
私は、かつて振り切ろうと思っていた「諦念」に、無限の後退に、その身を任せてしまっていました。
“飼育部部長”翡翠先輩のような、人間という存在への諦念に。
 
 
 
「誰とでも仲良くなるのは不可能だ。人間は色んなもので、他者と区別をつけたがる。最終的には、暴論を押し通せる強い奴が勝ちなんだよ。綺麗事は必要ない。ワガママを最後まで貫くのが社会的な強さだ」
 
「でも、そんな奴ばかりでは迷惑この上ない。だから、多くの人々から『怒り』を奪って『怒り方』を忘れさせるんだ。そうすれば、何もかも『飼育』できる。規則と精神の戦いが反復する檻にぶち込んで、国民の『怒り』を操作して飼い馴らす。一段と優れた精神を打ち殺し、正しい『怒り方』を教えずに服従させるんだよ」

 ――『愚者のジャンクション -side evil-』(耳目口司,2015:KindleLoc2768-2778)

 
 
「キミが一般人の怒りを語るなんて笑い話だ。諦めと達観、感情を剥き出しにすることを恥と思う文化の形成。怒りの牙は丸まっていき、ネット上に『死ねばいい』と一行書いたらスッキリして事実も忘れられる。それが美しい国と呼ばれる、働き蜂の巣の構造さ」
 彼女は一緒くたに丸め込む。でも、不思議と反論できない。反論のために思いつく単語が綺麗事でしかないと自分でも分かるから、論破されるのが嫌で誰もが口を噤む。
 いつも翡翠さんが容赦なく振るう、現実という暴力だ。
「でも、沢山の人の怒りに、僕たちは共感できます」
「じゃあさ、ボロクソに扱われているのに、どうして本気で怒って暴れないの。行動しないの。結局さ、意見を書き込んだ文章に、文章が喧嘩を売って、文章で議論するわけじゃない? ――ログを読み返せよ、そして時間の無駄だったと気付け」
 翡翠さんの言葉は、いつになく鋭利な刃物のように、僕の常識を切り裂く。
 その暴論に、夜月さんも頷いた。
「私たち記者は、テキストで喧嘩をすることがどれほど無意味かを知っている。それで互いを理解するのは不可能だ。テキストは弾丸と同じだ、パスの出来るボールではない」
「相手の意見をくみ取りながら、最善を模索するのが正しいんだろうね。でも理想論だ。そんなに賢い選択を人間はできない。自分の言いたいことを言って終了、それしか議論の仕方を知らない」
 中学生の頃、合唱会の練習で揉めて、会議になったことを僕は思い出す。
『どうしてもっとちゃんと練習しないの?』
 その問いに答えはなく、会議で昼休みは終わってしまった。
「賢い人だっている。こうすれば構造を改善できると、行動を起こす勇気ある者もいる。でも、本当に大半の人間は怒りも知らない馬鹿だから、否定から入って、自分を変えようなんて考えることもできない。それがまさに『飼育』の本質なのかもね」
「相手を馬鹿だと最初から決めつける、あなただって同じだ!」
 いい加減、翡翠さんの言いぐさが横柄過ぎて、僕もまた言い返す。
「それは檻の中の猿と野生の猿、どちらが賢いかという議論だ。それにはこう答えよう。どちらもそれぞれの環境に合わせた賢い生き方をしている、ただの猿だよ」
 そして、自ら檻の中に入った自堕落な猿の代表は、ニコッと悪びれもせずに笑った。
「だからあたしは、ダラダラ生きるんだ。夜月たちほど、頑張りたくないからね」

 ――『愚者のジャンクション -side evil-』(耳目口司,2015:KindleLoc2799-2827)

 
 
 
電子の海でただ生きるだけの亡霊と化していた私にとって、翡翠先輩の諦念は、苛烈な現実であり、甘い諦めの言葉でもありました。
たくさんの人間を見ました。たくさんの愚かさを見ました。その中で正しくあろうとすることの痛苦と徒労を知りました。
それを諦めることは容易く、求め続けることには果てはないのだと。
 
 
変化のない毎日で、自らの魂に問いかけられる判断の必要のない毎日で、「それでも」という言葉を思い起こさせたのも、また物語でした。
どのような物語たちで、というのはここではあえて述べずにおきます。
なぜならばそれは、ふとした瞬間に心に染み渡り、忘れていたことをふと思い出させ、「それは今まで読んできたものたちにも既にあったのだ」ということに気が付いたことだったからです。
あの時あの瞬間にこの作品に出会ったから、と言えるようなことはむしろ少なく、ある作品に刺激された心のどこかが、また他の作品に見出すべきものへの道筋を作っていったなどと言うほうが、恐らく自然なのだと思います。
 
後から振り返ってみれば。夜月の言葉――「この世に真実などない。あるのはただの事実と、それぞれに都合のいい解釈だけだ。」――それすらも、この世に存在する正答のない考え方のひとつに過ぎないのでした。私はそれを、絶対的なものとして内面化していました。今は、そうだと思っています。
 
 
ともあれ。
私は、一度は諦めてしまっていた「それでも」という言葉を、そのありようを、もう一度目指してみたい……目指していたいと、今は思っているのです。
「諦念」と「それでも」のあいだで。
 
 
 

 
 
 
 
繰り返しますが、これは、飲み会での会話のログのようなものです。ここまで全部そういう風に語ったわけではありませんが、そういう話をしていました。
 
「正しく」生きようとすることは、苦しいことだと。全部スッパリと諦めて切り捨ててしまうのは、楽な生き方だと。
――でも、「それでも」を捨てたかったわけじゃなかったんだよな、やっぱり。ということを、頷き合ったのでした。
 
 
 
 

 
本来は現在も執筆中のトライナリーの記事が来るはずでしたが、飲み会でいい話ができたので、少し時間はかかってしまいましたが、一本足すことにしました。
それでは、また次の記事で。
 
 
以下、参考